糸魚川の風景と美味を堪能できる〈雪月花〉
ここ、糸魚川から、妙高高原まで、〈雪月花〉というリゾート列車が走っている。今回乗車した「冬期特別運行カニコース」は11時37分に糸魚川駅を出て、上越妙高駅には15時12分に着く。
これに乗るため駅のホームにいくと、ぴかぴかに赤い2両編成の列車がある。ホームに降りてくる乗客たちは、白い上っ張り姿の老紳士とかわるがわる写真を撮っている。この老紳士、割烹〈鶴来家(つるぎや)〉の5代目店主、青木孝夫さんだ。
鶴来家は、江戸時代に創業した190年もの歴史を持つ糸魚川の割烹で、雪月花の懐石弁当を担当している。やはり大火で店舗が全焼し、それでも雪月花のお弁当だけは休みたくないと、青木さんは自宅の庭に仮設の調理場を作り、調理用に電気や水道を工事し、家族まで動員して大火の翌月、1月の雪月花のお弁当を作ったのだという。
鶴来家の青木さんと娘さんに見送られて、雪月花は出発する。2両ある雪月花の車両だが、雰囲気がまったく違う。カジュアルで明るい色調の車両と、シックで高級感あふれる車両なのだが、このどちらも床や天井、座席など、ふんだんに新潟の資材が使われているのだという。壁全体が窓といっても大げさでないくらい窓が大きく、先頭にある展望ハイデッキからは運転席の眺めがそのまま味わえる。
糸魚川を出発した雪月花は日本海沿いを富山方面に走る。途中、親不知という切り立った崖の名所を通り、富山県の泊駅で折り返す。このあたりでだいたい12時を過ぎるので、それぞれの席に置いてあるお昼の懐石弁当をみな広げはじめる。
木製の、三段重ねのお重に詰まっているのは、1の重にはベニズワイガニのちらし寿し、2の重には、うどぶきとぜんまいの旨煮、ごぼうとにんじんの牛肉捲き、さつまいものレモン煮など、3の重、鯛の山椒焼き、いくら茶碗蒸し、帆立貝うに蝋焼き、冬大根べっこう焼き、黒豆の石垣玉子、ふくらバイ貝、お椀はめぎすのつみれ汁。
糸魚川の食材にこだわるという鶴来家の一品一品、素材の味や食感を活かしながらもきっちりとした味つけで、うつくしい見た目に負けずと、味もうつくしい。
泊駅を出た列車は能生(のう)駅に向かって走る。車窓から見える白馬岳が雪をかぶっていて、絵画のようである。この日は晴れていて、海の向こうに佐渡島もうっすら広がって見える。「相撲と蟹のまち」というキャッチコピーの能生駅で乗客はいったん下車する。マイクロバスに乗り換えて、〈道の駅 マリンドリーム能生〉に向かうのだ。
この道の駅、ただの道の駅ではない。広大な敷地に土産物屋や特産品を売る店舗が並ぶのはよくある道の駅と同じだが、なんとここには「かにや横丁」なる一角がある。日本海側では最大級の蟹の直売所で、ずらりと並ぶのはベニズワイガニ。ズワイガニよりも身が少ないので安価だが、そのぶん身のうまみは凝縮しているのがベニズワイガニ、ということである。
500円から5000円ほどのベニズワイガニが売られていて、買ったその場で食べることもでき、配送することもできる。蟹だ蟹だ、と興奮状態でかにや横丁に足を踏み入れると、10軒ほど並ぶ店舗から、次々と試食を勧められる。
蟹の色鮮やかさ、にぎやかさ、各店舗の人たちの陽気さ、活気、ぜんぶが入り交じってこちらのテンションも上がる。どの店で買うか選ぶのも、いくらの蟹を買うか迷うのも、実際に買う段でお店の人とやりとりするのも、異様にたのしくて、なんだか笑いが止まらない。すごいところだなあ、マリンドリーム能生。
1時間ほどの自由時間を満喫して、またマイクロバスで雪月花に戻る。列車は直江津を通って終点へと向かう。
ところで、この雪月花は専属車掌の方がずっとマイクを通してガイドをしてくれている。「親不知」の地名の由来や、車窓に見える山々の名前、直江津駅に0キロポストがある理由、トンネル内にある「筒石駅」のことなどを教えてくれるのだが、このガイド、博識なばかりでなくて、なんとも妙味があってお茶目で、乗客を飽きさせることがない。感心してしまった。
直江津から上越妙高に向かう途中、田畑で作業をしている人や、家の庭で線路を眺めていた親子連れや、駐車場で車に乗ろうとしていた人などが、雪月花に気づいて手を振ってくれる、という場面に何度か遭遇した。なんだかすごくうれしくて、私も大きく手を振り返している。線路と、道や民家が近いから、手を振る人の笑顔もはっきり見える。ほんの一瞬のことなのだが、自分でもびっくりするくらいそのことに感動している。それぞれの生活の途中の一点で、ただ、笑顔を交わし手を振って別れる、ということが、こんなにもすがすがしくうれしいなんて。
上越妙高駅に着いたときはさみしかった。たった3時間と少しの旅だが、雪月花には何かぎゅっと親密な空気があって、別れがたい。
この雪月花のお弁当を一度も休まずに作り続けた鶴来家は、2019年年明けに、糸魚川駅近く、日本海を臨む場所で新規オープンした。
そういえば、今回の旅で会った人、お世話になった人たちは、大火だったり鳥インフルエンザだったり、なんらかの逆境を力にして、今まで以上のことをしたり、しようとしている人たちばかりだった。困難にぶち当たったときに、愚痴るよりまず先に進む道を考えて、困難すらバネにしようとする強靱さは、新潟の人の県民性なのだろうか。
卵のお菓子に興奮したり、写真館にうっとりしたり、雪月花で感動したり、蟹にテンションを上げたりと、じつに満ち足りた今回の旅でもっとも印象に残っていて、今後もずっと忘れないのは、人々のこの静かな強靱さかもしれない。
Profile 角田光代
1967年神奈川県生まれ。作家。『幸福な遊戯』で第9回海燕新人文学賞を受賞しデビュー。『対岸の彼女』で132回直木賞、『八日目の蟬』で第2回中央公論文芸賞受賞。現在刊行中の日本文学全集『源氏物語』(河出書房新社)の訳を手がける。旅にまつわるエッセイも多数。
credit text:角田光代 photo:ただ(ゆかい)