“もの”だけでなく、“価値”もつくることを目指して
織物業として創業した〈丸正ニットファクトリー〉ですが、ニットの製造が始まったのは1982年。
「それまでは見附市そのものがポリエステルやナイロンといった合繊生地の一大産地で、海外への輸出も多かったと聞いています。でも生地はあくまでもパーツであって、そこには付加価値は少ない。そこで、より付加価値のあるニット製品の製造を始めたのが先代の社長でした」と佐野さん。
「歴史の長い会社ですが、ニットメーカーとしては後発で、遅れをとっている。さらに売り先も産地の問屋さんで、消費者であるお客さんからは遠い位置にありました」
会社の体制が変化するなか、東京の総合商社での勤務を経て〈丸正ニットファクトリー〉に入社した佐野さん。当時は見附市のほかのニットメーカーと同じくメンズニットの製造が中心でしたが、より製品として付加価値があり、流行の変化による買い替え需要があるレディースニットへと徐々に転換していきます。また同時に変化させていったのが、製品の売り先。
古い構造から抜け出し、時代に沿った売り方を目指して
「レディースニットの生産を増やすとともに、売り先をそれまでの問屋さんから、商社を通してアパレルメーカーさんに売るというルートへと変えていきました。特にこの10年は、それまでの日本的な構造から脱却して、商社を通さずに通信販売の会社との直接取引もするようになりました」と佐野さん。
「今では百貨店で売られているものと同じクオリティの商品が3割から半額に近い価格で、消費者により近い通信販売などの場で売られている。そうなると百貨店でものが売れなくなるのは当たり前なんですよ。消費者のみなさんのものを見る目は、つくり手である僕らよりも養われていますから」
それまでの売り先が低迷するなか、自分たちがつくるニットの付加価値を高め、より消費者に近づける市場を開拓して共に成長していったという〈丸正ニットファクトリー〉。その先にあったのが〈中川政七商店〉との出会いと〈kuru〉の誕生でした。
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