雪にほれて東京から妙高市へ移住。そして訪れた転機
上越高田への赴任中、妙高市に住む友だちができたことをきっかけに、妙高へと遊びに来たビルさん。「妙高は国際リゾート地ということもあって、英語を話せる人も意外とたくさんいて。ホテルを経営する家族も多いからか、子どもでも外国人の僕を普通に受け入れてくれたので『おもしろいな』って感じました」
そして滞在中、スキースクールの看板を偶然見つけて興味を持ち、山岳スキーの主流スタイルであるテレマークスキーを始めます。「スキーは小さい頃にやっていたのですが、ミネソタの雪は硬いので怪我をしたこともあって。でも『やっぱり山で滑ってみたい』と思って始めたら、楽しくて夢中になりました。その頃はまだ“バックカントリースキー”という言葉もなくて、“山スキー”とか言われていましたね」
“日本らしさ”が失われたスキー場を見て抱いた危機感
上越高田での2年間の赴任後は、東京の総合商社でホテルや航空会社の外国人向け広報誌の編集や、広告のコピーライティングの仕事をしながら、妙高高原へと足を運んでいたというビルさん。「仕事はすごくおもしろかったのですが、あまり長い休みを取れなかったんですよね。そこで96年に『ワンシーズンだけ妙高に住んで、次の仕事をどうするか考えながらスキーを楽しもう』と、東京から妙高市へ仕事の拠点を移しました」
以来20年以上、妙高に住み続けているビルさん。地元の〈妙高バックカントリースキー・スクール〉のグループに入り、スキーの技術も磨いていたところ、ひとつの転機が訪れます。
「今から10年くらい前、仕事の関係で他県のスキー場へ行ったところ、外国人のお客さんだけでなく、あまり信頼できないようなガイドも増えていたんです」
妙高高原が同じような状態にならないよう、早めに海外向けのプロモーションをしたほうが良いと地域の方々に相談をしたビルさんですが「『でも外国の方は何を考えているかわからないし、怖いから……』と断られてしまったんですよ。だったら自分でやるしかないと、週末だけサービスをするかたちで〈dancing snow〉を立ち上げました」
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