文・角田光代
気の遠くなるほど細やかな雪国の手仕事「越後上布」
上越新幹線が高崎を過ぎて、もうじき越後湯沢が近づいたと思う、その直前、列車は長いトンネルに入る。トンネルを出ると、景色は一変して白く、おそらく乗客のほとんどはあの有名な小説の出だし「トンネルを抜けるとそこは……」を、つい思い浮かべているのではないか。
越後湯沢で新幹線を降り、上越線に乗り換えて塩沢に向かう。塩沢で、「雪晒し」を見せてもらうのである。
2月中旬から3月上旬、雪の季節に行われる「雪晒し」とはなんぞや。それを知るにはまず、この地方で代々織られている「越後上布(じょうふ)」について知らなければならない。越後上布とは、小千谷縮(おぢやちぢみ)とともに、それぞれ南魚沼、小千谷でずっと昔から織られてきた、夏の麻の着物地である。昭和30年に重要無形文化財指定を受けている。
苧麻(ちょま)という麻を精製して細い糸にし、いざり機(ばた)と呼ばれる織機で織っていく。と、一行で書いてしまうのが申し訳ないほど、気の遠くなる緻密で精魂のいる作業だ。
ちょうどこの日、越後上布と小千谷縮について教わりにいった越後上布・小千谷縮布技術保存協会で、織りの講習会をやっていたので、見せていただいたのだが、まず苧麻を糸にしていく作業が、いったい何か月かかるのだろうというほどたいへんだ。私にはとてもできない、とその作業を一目見るだけで思う。
染めた糸を織るのも、いざり機という全身を使う織機で、一本一本、糸を織り込んでいく。一日織って、できあがる布は3センチから、多くて10数センチだそうだ。
なんて手の込んだ、根気のいる布地だろう。魚沼の冬は寒いから、昔々の女性たちは家のなかでじっと糸を紡いだり、いざり機を動かしていたのだという。
これほどまでの手作業だ、今は織る人もめっきり減ってしまったと聞いて、そりゃあそうだろうと思う。今はいくら冬が寒いからといっても車があるし、どこへでも出かけられる。けれども、この日も3人の女性が講習会に参加しているように、この重要無形文化財を守りたいと思う人は一定数いて、こうしてずっと講習会は続いているのだという。
もちろん織り上がった越後上布の値段は、とんでもなく高い。その値段を聞いて絶句してしまったが、でも驚くと同時に、納得もする。これほどの手間ひまをかけて、ていねいに丹念に作られたものが、機械でぱっと作られたものと同じ値段のはずがないのである。
できあがった越後上布は、大げさではなく天女の衣ってこんな感じなのではないかと思うくらい、薄くてうつくしい。これを着物に仕立てるわけだが、その前に「雪晒し」をする。
雪晒しは、言ってみれば漂白だ。
織り上がった越後上布を、2月の中旬過ぎの晴れた日に雪の上に広げる。それを1週間から10日ほどくり返す。そうすると、うっすらと生成りの色をしていた布地が、真っ白になる。模様の織りこまれた布地はその模様がくっきりと浮き上がってくる。
また、雪晒しは新しい布地ばかりではなく、古いものにも行うという。
経年により変色してしまった越後上布の着物をほどいて、また一反の布にする。それを同様に雪に晒すことによって、黄ばみや汚れはみごとに落ちる。化学薬品で漂白するよりも、この雪晒しをしたほうがより白くなり、その白さも長持ちし、何より布を傷めない。
この雪晒しを専門に行う職人は、かつては大勢いたというが、今は一軒だけになってしまっている。その一軒、古藤政雄さんを訪ねると、ご自宅の前の雪をかぶった田んぼに、6枚ほどの布が並んでいる。水に浮かんでいるようにうつくしい。白い布地は雪と同化するくらい白く、青い布地はやわらかく澄んだ青である。
この雪の漂白ができるのは、麻で作られた越後上布のみだという。紬などの動物繊維だと、繊維が傷んでしまうらしい。自然の神秘である。
雪に晒された布地からふと顔を上げて、びっくりする。目の前に広がる風景が信じられないほどうつくしい。ずーっと先まで続く雪の田んぼ、その先に、雪をかぶった山々がそびえている。その雪も溶けはじめて、ところどころ山が地肌を出している。折り重なる山々、それぞれの雪形、青い空、ぐるりと360度どこを向いてもその景色だ。あまりにうつくしすぎて、現実のものとは思えず、書き割りのなかにいるかのようだ。
そして地面に目を戻すと、雪の上に浮かぶような布。あまりのうつくしさにますます現実味がなくなっていく。あれが巻機山(まきはたやま)だと古藤さんが教えてくれる。山に巻機という名前がついているなんて、やっぱりここは織物のまちなのだと思い知る。
車に乗って、今日の宿、〈里山十帖〉を目指すのだが、窓の外の光景から目が離せない。山があるだけなのに、動画を見るようについつい見入ってしまう。そのくらいうつくしい。
このまちの人たちは、ごくふつうに横断歩道を渡ったりパチンコ屋に入っていったり、自転車を漕いでいたりするけれど、こんなにきれいな光景に我を忘れて見入ったりしないのだろうか。それともやっぱり毎日毎日、暮らしの合間合間に、山はいいなあと見とれている時間もあるのだろうか。
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