越後が誇る“日本のミケランジェロ”石川雲蝶
今日もまた、四方をぐるりと取り囲む山々に見とれながら、魚沼地区に向かう。目指すのは西福寺開山堂。約500年の歴史を持つ曹洞宗のお寺だ。このお寺には、石川雲蝶の作品が数多く残されている。
石川雲蝶。私はその名をまったく知らなかった。
1814年に江戸で生まれた雲蝶は、もともと寺社建築の木彫りを行う彫物師だった。30代前半のころ、越後三条の法華宗総本山・本成寺の世話人と出会い、彼に「一生おいしい酒とノミを与える」と言われて越後に赴く。以後、越後三条を起点に、木彫りのみならず絵画、石彫も含めて多大な創作活動を行う。「日本のミケランジェロ」と言われているのは、彫刻や絵画など、さまざまな分野に才能を発揮している故だ。
山門を入ると広い境内が広がっている。右手に本堂、左手に開山堂がある。立派なかやぶき屋根の開山堂は、外側にもぐるりと雲蝶作の彫刻がある。向拝と言われる屋根の下の部分に、カラス天狗や象や獅子がじつに緻密に彫りこまれている。ただ緻密なだけではなくて、それぞれにどことなくユーモラスな表情がある。
本堂の右手にある庫裡が受付になっている。本堂に足を踏み入れると、そのにぎやかさにびっくりする。襖には絵、かつて書院障子であった透かし彫りのついたて、欄間には彫刻、ともかくあちこちに何かしらの作品があり、すべて雲蝶によるものだ。
本堂から続く開山堂の内部にいって息を呑む。ここにも至るところに雲蝶作品があるのだが、まず目に飛びこんでくるのは天井だ。じつにこまかい彫刻に色彩が施されている。
「道元禅師猛虎調伏の図」と題されたこの巨大な透かし彫りは、虎に襲われそうになった道元が竜神に助けられるという物語をもとに作られている。目をこらして見ていると、竜と虎と道元のほかに、亀や鯉、鷹、猿、ヒバリ、雀とさまざまな生きものが次々と浮かび上がってくる。精巧でありながら、ともかくすごい迫力だ。
天井だけでなく、四方の欄間の彫刻もものすごい。みごとな透かし彫りでさまざまな道元の物語が描かれている。何も施されていない場所が1ミリもないくらい、こまかくこまかく彫ってあって、透かし彫りによる立体感・遠近感が圧倒的で、ずっと昔の作品なのに、まだ息づいているような活力がある。
よくよく見ると、やっぱり物語の主要な動物のほかに、雀や蝶といったちいさな生きものが描きこまれている。そして表情が生き生きとしていて、やっぱりどれもチャーミングだ。
西福寺を出て、永林寺に向かう。このお寺にも有名な雲蝶作品がある。ここのお寺でいちばん有名なのは欄間に彫り込まれた天女だ。太鼓を叩く天女や、笛を吹く天女が、これも着色されたまま現存している。おもしろいのは、欄間に並ぶ天女二人を、裏側から見ると、裸の背中が並んでいるのだ。お寺に女性の裸の背中である。雲蝶は自由な精神の人だったのだろう。
そのほか香炉台を背負う三人の天邪鬼やこれも色彩のうつくしい孔雀の彫りものなど、雲蝶作品は100にも及ぶ。板絵に描かれた鶏も、浅彫という、薄い板に絵を描くように彫る手法で描いた鷲やぶどう、波間の鯉など、引きこまれる作品ばかりだ。翡翠の原石から彫られた寝牛と蛙というじつにかわいらしい作品もある。このお寺の書院障子もすばらしい。そしてやっぱり、どの作品にも独特の人間味がある。
雲蝶を招いた本成寺も、家族とともに彼が住んだ三条の住まいも、火事に見舞われて資料がいっさい残っていないのだという。西福寺や永林寺では伝承も残っているが、雲蝶が実際にどんな人だったのかは、あまり知られていない。でもこれらの作品群を見ると、ちいさな生きものをこよなく愛した、気持ちの大きな人だったのだろうなあと思えてくる。
雲蝶の作品群は、魚沼をはじめ越後湯沢にも三条市にも、新潟県内に数多く存在する。70年の生涯で、いったいどのくらいたくさんの作品を残したのか。
そうして私はまたしても、思うのである。なぜこんなに手の掛かる、面倒なことをやり続けることができたのか……。
そういえば、雪晒し見学からはじまった今回の旅は、私には想像もできないほど根気のいるものばかり見てきた、と気づく。越後上布ができあがるまでもそうだし、里山十帖の改築も、この雲蝶作品も、それぞれがともかく根気と時間のかかるものだ。何より強いモチベーションがなければはじめることができないものばかり。私のような面倒くさがり屋がけっして持てないモチベーションだ。
それってなんなのか、と考えるまでもなく答えは出る。今回の新潟の旅に共通するのは「うつくしさ」だ。織物のうつくしさ、漂白のうつくしさ、山々のうつくしさ、生活のうつくしさ、食のうつくしさ、そして生きとし生けるものたちを彫刻や絵画にした、その芸術のうつくしさ。
そのうつくしさを追う心は、きっと、私がずっと見入ってしまった山々の光景が育んだものではないか。そんなことを考えた旅だった。
Profile 角田光代
1967年神奈川県生まれ。作家。『幸福な遊戯』で第9回海燕新人文学賞を受賞しデビュー。『対岸の彼女』で132回直木賞、『八日目の蟬』で第2回中央公論文芸賞受賞。現在刊行中の日本文学全集『源氏物語』(河出書房新社)の訳を手がける。旅にまつわるエッセイも多数。
credit text:角田光代 photo:ただ(ゆかい)