縄文時代から権力の象徴だった? 糸魚川の翡翠
新潟県では、シンボルごとに「新潟県シンボル普及促進アンバサダー」が起用されていて、普及啓発に携わっています。翡翠のアンバサダーは〈地球科学社会教育機構〉理事長の石橋隆さんです。
「翡翠の価値は、美しさだけでなく、歴史のなかで人類がこの石を特別なものとして扱ってきたことにあります。新潟県の石になりましたが、実は日本鉱物科学会が国の石にも選んでいます。古来から日本には翡翠を珍重する文化があったからです」と石橋さん。
翡翠の主たる産地は、糸魚川市のほか、中国とミャンマーの国境付近、そしてグアテマラです。古くから朝鮮半島、中国など東アジアで権力者のもとに集められていました。日本では大珠や勾玉として、日本各地の遺跡から見つかっています。歴代の天皇に伝わる宝物、三種の神器のひとつ、やさかにの勾玉も素材は翡翠製だという説もあります。古事記で今の北陸にあたる高志国の奴奈川姫(ぬなかわひめ)の伝説も、翡翠にまつわるものです。
こういったことから、翡翠は縄文時代から奈良時代まで、権力者の装身具や祭事、呪術に使われていたのではないかといわれています。
「遺跡から出てきたものは、非常に緑が濃く、美しく、価値が高いものが多いです。特別にいいものが選りすぐられて各地方の権力者に渡ったのではないでしょうか」(石橋さん)
かたい岩石、翡翠にまつわるさまざまなミステリー
翡翠は5億年前に地下深くで生まれ、その後上昇して地上に現れたと考えられています。糸魚川のヒスイ峡には大きな岩塊の翡翠があり、その翡翠が小滝川や青海川を下って海岸や河原に辿り着きました。
翡翠拾いをするときにも手がかりとなりますが、翡翠はほかの石よりも重く、角張っている傾向があります。山奥から海岸に流れついた翡翠もかたいため、ほかの石よりも角がある場合が多いのです。
そのかたい翡翠でつくられた勾玉は、きれいに穴が開けられています。
「どうやって加工していたかも含めて、細かいことはよくわかっていません。パイプ状のものを回転運動させながら穴を開けたのは確からしいのですが、研磨剤にいったい何を使ったのか、どれほど時間をかけたのか。はっきりしません」(石橋さん)
糸魚川市内にある長者ケ原遺跡は、5000年ほど前のもので、翡翠の玉の生産・交易拠点だったと考えられています。その後も、いにしえの権力者たちは、美しいグリーンの翡翠を珍重してきました。ところが奈良時代を境に、日本列島ではまったく利用されなくなり、翡翠は日本の歴史に登場しなくなります。そのためか、糸魚川で翡翠が採れること自体が長きにわたって忘れられていたのです。
そして近代になると大きな誤解が生じます。
「日本の古墳などの遺跡で見つかった翡翠は、大陸から運ばれ朝鮮半島を渡ってきたものだろうと考えられていました」(石橋さん)
ところが1930年代後半に、糸魚川で翡翠が産出されることがわかります。その後、日本の古墳などから見つかった翡翠は、中国とミャンマーの国境付近から出る翡翠とは見た目や含まれる微量元素が異なり、縄文時代に糸魚川で採取された翡翠が流通したことがわかってきました。
海岸での翡翠拾いで想いをはせる途方もない地球の歴史
縄文時代は1万年続いたといわれますが、その後少なくとも2500年以上の間、糸魚川の翡翠はまるで忘れられていました。しかし、地球や石の時間と比較するとその約2500年もわずかな時間に過ぎません。
「地球の歴史が46億年、宇宙は138億年といわれます。翡翠をはじめとして石の生い立ちのスケール感で考えることで、僕は人生観が変わりました。翡翠に興味を持って糸魚川を訪れることが、物事の考えを変えるきっかけになったらいいですね」
翡翠の産地であることが再発見されて以降、糸魚川では地場産業として翡翠の加工も行われてきました。また〈フォッサマグナミュージアム〉では、翡翠の原石が展示され、糸魚川市押上のヒスイ海岸をはじめとする、石拾いスポットで拾った石が翡翠かどうか、石の鑑定をするサービスも行われています。
糸魚川で翡翠拾いにチャレンジすると、これまでとは違う時間の流れやものの見方を感じられるようになるかもしれません。
credit 写真提供(1ページ目メインカット):糸魚川市 text:野崎さおり