新潟のつかいかた

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DJ松永×駒形宏伸 (DJ CO-MA)
師弟トークライブ
世界一と世界一が語る
ふるさと・新潟 Posted | 2022/03/30

当サイト『新潟のつかいかた』のキャンペーンアンバサダーを務めるCreepy NutsのDJ松永さんと、その師匠である駒形宏伸さん(DJ CO-MA)によるトークイベントが、〈ニッポン放送イマジンスタジオ〉で開催されました。

駒形さんは、新潟県南魚沼市で農家として米づくりに励むかたわら、世界最大のDJ大会〈DMC WORLD DJ CHAMPIONSHIPS 2006〉で優勝し、世界一になった実績を持っています。2020年にはお米の日本一を決める大会〈第17回お米日本一コンテスト in しずおか〉で最高金賞を受賞し、日本一の米農家にもなりました。

新潟が生んだふたりの世界一DJが、出会いから十数年を経た今、ふるさとの魅力をたっぷり語りました。

トークイベントの様子
当選した50名が会場で観覧しました。

DJスクールで出会ったふたり。
「とんでもないやつが来たなと思った」

松永 今日は、僕のDJの師匠であり米農家でもある駒形宏伸さん、僕は“コマ君”と呼んでいますが、新潟をテーマにふるさとの魅力を語り尽くそうと思います。コマ君の実家は、代々続く米農家なんですよね。何代目でしたっけ?

駒形 俺で10代目で、初代は1777年。

松永 1777年!! すごい。

駒形 実は俺も最近知ったんだけど、安永6年だって。ピンと来ないよね(笑)。

松永 学生時代は、ずっと陸上をやっていたんですよね。

駒形 陸上は小学生の頃に始めて、中学では全国大会に出て、高校はスポーツ推薦で。大学でもかなり真剣にやっていて、当時、全日本のコーチがいた金沢の大学に行きました。

スマホケースを手にするDJ松永さん
生まれ故郷である長岡市の地図がプリントされたスマホケースを愛用しているというDJ松永さん。

松永 陸上で金沢に行ったのに、そこでDJを始めるんですよね。

駒形 陸上には相当真剣に打ち込んでいたけど、コーチから「お前の身長(173センチ)じゃ限界がある」と言われて。一気にやる気がなくなって、次の日から部活に行くのをやめたんだよね。それが大学3年生。残酷な仕打ちだったけど、その言葉があったからDJになれたんだよね。
あるとき、友だちの家に行ったらターンテーブルがあって、Des’reeの『You Gotta Be』を聴いたんだけど、俺の知ってる『You Gotta Be』じゃなかった。レコードって、CDに入っていないリミックス版があるでしょ? それがめちゃめちゃかっこよくて。しかも間髪入れずに宇多田ヒカル『Automatic』のイントロを入れてきて、あまりのかっこよさに衝撃を受けた。次の日、服とか家具とか売り払ってお金つくって、足りない分はローンを組んでターンテーブルを買ったんだよね。

松永 極端ですね(笑)。

駒形 そう。それで友だちが持っていたDJバトルのビデオを見て、スクラッチの練習を始めるんだよね。それが大学4年生の半ば(2001年)です。

松永 DJバトルを見たら「演奏してえ!」って気持ちになりますよね! で、2004年に初めてDMCの大会に出て、いきなり関東大会で優勝。これ、かなりエグイことですよ。あの大会ですでにコマ君スタイルは完成されていましたよね。Janet Jacksonの曲をジャグリング(同じレコードを2枚使うDJのテクニック)で Deep Purple『Smoke On The Water』 に組み替えるという。2005年はどうだったんですか?

駒形 2005年はシングル部門で負けたんだよね。帰り道に悔しすぎて電車のトイレで号泣したのを覚えてる。でもバトル部門に出てみたらまさかの優勝。その後の世界大会はベスト8で負けて、また悔しくて号泣した。

トーク中の駒形宏伸さん

松永 それくらい、ルーティン(DJプレイの構成)づくりって命削るんですよね。Uターンして農家をやりながらだから、寝る時間なかったでしょ?

駒形 ほとんど寝ないで仕事してたね。でもそのおかげで2006年には世界大会で優勝できたから。

松永 僕がDJを始めたのはその翌年くらいです。

駒形 きっかけは何だったの?

松永 最初はなんとなくですね。部活をやめて、HIP HOPが好きだったから、バイトの最初の給料が入ったときに安いターンテーブルを買ったんです。コマ君が世界大会で優勝したことは地元のラジオで知りました。2008年のDMC日本大会のファイナルには、客として見に行っていたんです。衝撃でしたね。当時は素人の僕が見ても圧倒的にコマ君がすごすぎて、ぶっちぎりの優勝でした。
その年の暮れに、コマくんが魚沼市でDJスクールを始めることをmixiで知りました。それがコマ君との出会いでした。

駒形 あの日は雪国出身者からしても「誰も来ないだろうな……」と思うほどの猛吹雪だったので、初めて松永を見たときは、とんでもないやつが来たと思ったよ。短パンで来たからね(笑)。しかもよく見たら足元はサンダルだし。でもすごい吸収力だった。次回習いに来たときには、前の回に教えたことを完璧にマスターしている。そのうちまだ教えてもいないパターンを自分で組み込んだりして、同時期に来ていた子たちより明らかに早いスピードで上達していったから、相当、本気なんだろうなとは思った。

会場のモニターに映し出された、DJスクール中のお二人の写真
駒形さんから教えてもらっていたときの懐かしい写真が会場に映し出された。

松永 もう高校をやめていたから「これしかない!」って気持ちでした。コマ君の想像を超えるくらいマスターして驚かせたい気持ちもありましたね。2009年にはDMCのティーンズ大会に出て、ルーティンをコマ君にめちゃくちゃ相談しましたよね。僕はベスト4に入れたけど、それでも負けたのが悔しかった。
それから少し経って20歳になった頃、僕は東京行きを決意するんです。コマ君の家に行って「東京で音楽で成功して、飯食えるようになります!」と報告したのを覚えています。あとから知ったんですけど、コマ君はあれを機に農業に集中しようと思ったんですよね。

駒形 当時、DJへの情熱が冷めつつあったんだよね。松永からそういう報告を受けても「俺も東京に!」という悔しい気持ちが湧いてこなかったから。それで自分も音楽に代わる熱くなれるものを見つけたいと思ったし、その頃、結婚したこともあって、ちゃんと生活していかなきゃいけないから、家業の農業を真剣にやってみようと思って。そうしたら意外とおもしろくて、どんどんハマっていったんだよね。

イベントでトーク中のお二人

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