新潟のつかいかた

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日本スキー文化の
立役者が新潟に!?
新潟イチの人気ご当地キャラ、
日本元祖スキー漢・
レルヒさんに聞いた! Posted | 2023/03/15

「だから新潟がいい!」という県民のアツいメッセージを紹介する『#新潟のコメジルシ』から『世界に誇れる美しい日本の四季を感じ、心癒される場所。妙高』という記事に注目。日本にスキー文化を広めたレルヒさんを取材しました。

日本スキー文化の立役者が新潟にいたということをご存知でしょうか。新潟の地で、日本で初めてスキーの指導をしたオーストリア=ハンガリー帝国のレルヒ少佐です。レルヒ少佐は、1910年から約2年間日本に滞在し日本でスキー文化の普及に努めました。

そして、レルヒ少佐がスキーを伝えて100年となる2011年の日本のスキー100周年を前に “日本元祖スキー漢(おとこ)”として登場した 「レルヒさん」は、全国のご当地キャラクターが人気を競う「ゆるキャラグランプリ」で、最高位10位に輝くほどの人気キャラとなりました。

新潟県のイベントや、お土産売り場などでレルヒさんを見かけたことがあっても、レルヒ少佐については、詳しく知らない人も多いのではないでしょうか。そこで今回は、Twitterフォロワー数約5万人を抱え、新潟県外のファンも多いレルヒさんご本人に直撃インタビューを敢行。レルヒさんの新潟での仕事ぶりについて聞きました。

日本スキー文化の立役者・レルヒ少佐はどんな人?

——まず、レルヒ少佐の簡単なプロフィールを教えてください。

レルヒさん:コンニチハ! 少佐の名前は、テオドール・エードラー・フォン・レルヒです。「レルヒ」が名前だと思われがちですが、実は名字なんです。オーストリア=ハンガリー帝国の軍人で、最終的には少将まで出世しました。

——一般的にはレルヒ少佐と呼ばれていますよね。

レルヒさん:はい、新潟にいたときは「少佐」でした。それで親しみを込めて「レルヒ少佐」と呼ばれています。1869年8月31日、今のスロバキア共和国の首都・ブラチスラヴァ生まれです。父親が軍人で、なおかつ当時のエリートは軍人を目指すのが主流だったため、少佐も軍人になりました。

新潟から全国を飛び回ったレルヒ少佐

金谷山のレルヒ少佐の銅像と当地キャラ・レルヒさん

——今や新潟で「スキーと言えばレルヒ少佐」と言っても過言ではないほどの知名度ですが、そもそもなぜ日本に来たのですか?

レルヒさん:日本に興味があり、日本に来たいと思っていました。それは、当時日本が日露戦争に勝ったから、という理由が大きいです。当時、ヨーロッパ全体で日本への関心が高まっていたこともあり、少佐も日本の研究をしていました。それで「日本に行きたい」と軍に打診したんです。

——新潟でスキーを教えることになった経緯も教えてください。

レルヒさん:実は1902年に青森県の八甲田山の軍事訓練で死者が199人にものぼる遭難事故があり、日本軍はスキー導入を検討していたそうです。

そんな経緯もあり、1910年11月に少佐が軍事視察で日本に訪れると、「それなら、スキーの講習をしてもらおう」となり、雪深い上越市の高田に派遣されることになりました。

スキー場に現れたレルヒさん

——初めてスキー指導をしたのはいつですか?

レルヒさん:1911年1月12日ですね。この日にスキー講習会を初めて開催しました。そのため毎年1月12日は「スキーの日」に制定されています。

当時教えたのは、現在のスキーのように2本のストックで滑るタイプではなく、山岳に適した「リリエンフェルド・スキー滑走法」という一本杖のアルペンスキーでした。指導だけでなく、高田の方々と一緒にスキー倶楽部の創設やスキー競技会の実施に奮闘したそうです!

——スキー指導の後は何をしていたんですか?

レルヒさん:富士山や福島の磐梯山に登ったり、夏には海水浴したり、大相撲を見たり……日本中を観光しました。そして、1912年2月には北海道の旭川に赴任になり、ここでもまたスキーを指導して、日本中にスキーが広まるきっかけづくりをしました。

——北海道では中佐になって、「レルヒ中佐」と呼ばれていますよね。それで、上越市の〈日本スキー発祥記念館〉に遺品が展示されていたり、新潟と北海道に全部で3つもレルヒ像があったりするわけですね。もはや日本のスキー文化はレルヒ少佐なしでは語れません。

新潟でレルヒさんは人気者!

スキースクールに参加した子どもたちとレルヒさん

——約2年間の任期終了後「レルヒ少佐」は帰国されたそうですが、その100年後となる2011年の日本のスキー100周年を前に、2009年に「レルヒさん」が登場したというわけですね!

レルヒさん:はい! 100周年なのに、日本でのスキー人気がイマイチだったので、ここはひとつ盛り上げてやろうと。「レルヒさんのうた」を作ったり、イベントに出演したり。スキーをする子供も減っていたので、スキー場から協力してもらい、無料のスキースクールも始めました。

——レルヒさんは今も大人気ですね。イベント出演やメディア露出で忙しそうですが、普段はどんな仕事をしているんですか?

レルヒさん:日本のスキー100周年で人気が出たので、スキー以外の活動もしてくれということで、イベントなど目立つところだったらどこにでも出席して新潟のPRをしています。年中フル稼働で、いっぱい働かされているんですよ(笑)。

PRイベントの参加者たちとゲレンデに立つレルヒさん

——Twitterのフォロワーは新潟ご当地キャラではダントツ1位の5万人ですが、課題としては全国的な知名度がもうちょっとほしいところですか?

レルヒさん:5万人といってもまだまだです! もっと全国の人にも知られるべく日々奮闘しています。

世界的な人気を集める妙高の雪

——ところで最近は、外国人スキーヤーに妙高が人気のようですね。妙高の雪が話題になっていると聞きました。

レルヒさん:そうなんですよ! 雪質は褒められますね。外国の方からは「パウダースノー」(JAPOW/Japan Powderの意)だけでなく「ディープスノー」という言葉もよく聞きます。

妙高は標高が高くて新雪がどっさり降るんですよ。それに商店街やまち並みに日本の風情が残っていると外国の方から人気のようです。

——妙高に外国人観光客が増えてきたのはいつ頃なんでしょうか?

レルヒさん:2015年くらいですね。妙高、長野の野沢、白馬などのスキーエリアの人たちが一緒になって、オーストラリアにプロモーションしたのがきっかけです。

——それで妙高が人気になったんですね。100年前には、雪質を求めて妙高のゲレンデに外国人がやってくるなんて、レルヒ少佐には想像できなかったでしょうね。今や、スキー以外の仕事も大忙しのようですが、今後のご活躍も期待しています!

日本のスキー文化の祖であり、いまも多くの人に愛されるレルヒ少佐。そんなレルヒ少佐は、スキーだけでなく絵を描くのも得意だったそうで、当時の少佐の作品は上越市の〈日本スキー発祥記念館〉に展示されるほど。知れば知るほど、レルヒさんに親しみが湧いてきますよね。ぜひこの機会に記念館やレルヒ少佐の銅像のある金谷山スキー場に遊びに行ってみてください!

Information

【日本スキー発祥記念館】
address:新潟県上越市大貫2-18-37
tel:025-523-3766
営業時間:4~10月/9:00~16:30、11~3月/9:00~16:00(最終入館は閉館の30分前まで)
休館日:月曜(休日のときは翌日)、休日の翌日、年末年始(12月29日~1月3日)

Information

【金谷山スキー場】
address:新潟県上越市大貫595-2
tel:025-525-4295(金谷山管理事務所)

レルヒさんが紹介してくれたように、妙高の雪質は外国からも認められるほど! ですが、妙高の魅力は冬に限らず、四季の美しさにもあるようです。県民から見た妙高の魅力についても紹介しています。

竹田嶺さん

この記事のネタ元は、新潟県妙高市出身の竹田嶺さん。
「だから新潟がいい!」という県民のアツいメッセージを紹介する『#新潟のコメジルシ』から『世界に誇れる美しい日本の四季を感じ、心癒される場所。妙高』という記事に注目しました。

credit text:藤岡あかね 写真提供(メインカット):「レルヒ少佐肖像写真」(小熊和助氏撮影、日本スキー発祥記念館所蔵)